ミニマリストになって様々な習慣や行動を断捨離してきました。ウィンドウショッピングや職場の飲み会、だらだら眺めるSNS時間など。そんな中、英会話教室に通い続けて早数年が経ちました。ミニマリストは無駄を省く生き物。それがなぜ、お金と時間を使って英語を勉強することを選んだのか。経緯と体験を交えてご説明します。
「英語の勉強をしてるけどモチベーションが上がらない」「語学なんて意味あるの?」「ミニマリストになって、何に時間やお金を使えばいいか分からなくなった」。語学への動機付けや意欲を持てないことに悩む方、色々なことを辞めていった結果新しく物事を始めることができなくなった人。微力ながら、そんな方々のお役に立つ経験をお伝えできると思います。しばしお付き合いください。
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手段としての英語
きっかけは、就職した職場に慣れてきた頃に訪れました。
もともと私は英語と縁のない暮らしをしていました。知識も大学入試のために詰め込んだものだけ、それもほとんどこぼれ落ちて残っていませんでした。しかし、当時の恋人がヨーロッパで仕事をするという夢を私に話してくれました。そして、それがただの夢から具体的な計画になった時、ならば私も一緒に行かねばならぬと一念発起しました。
昔から、漠然とではありますが海外で暮らすことには憧れていました。異国の風景や多様な文化、美しい芸術、そして映画に映し出されていた世界。しかし実際に何か行動を起こすことはなく、その憧れは心の片隅に丸めて仕舞われていました。不自由ない暮らしから遠く離れ、挑戦の中に身を投じる勇気はありませんでした。具体的な問題は思いつかないけれど、やらない理由はいくらでも湧いてくる。そんな私にとって、パートナーの海外移住は渡りに船、まさに人の夢に乗っかる形で憧れを実現させようとしたわけです。もちろん彼女を支えてあげることが自分の役割だと思っていたし、結婚も視野にいれていました。しかし、憧れがなければきっと移住なんて考えなかったでしょう。
移住するとなれば、当然言語の問題が立ちはだかります。それはもう分厚く大きい、真っ黒な鉄の壁です。しかし、思い切りのいい性格をしている私は一度決めたのならやるだけだ、とまずはその壁の攻略に取り組んでみることにしました。当初は住む国の言葉を勉強しようと考えていたのですが、どこでも英語が通じるなら、まずはそれをマスターしたほうが後々便利だろう、働くのだから読み書きよりまずは意思疎通ができなくちゃ、と道筋を立てていきます。英語を学ぶことは海外で暮らすための重要なツールを用意するに等しかったのです。おおよその勉強期間を考えれば、無料の勉強法(アプリ、映画、ネイティブとのマッチングアプリなど)では到底間に合わないと思った私は、思い切ってマンツーマンの英会話を申し込みました。将来の生活に必要だったから、決して安くはない額を支払うことも厭いませんでした。
しかし、私は現在も日本に住んでいます。移住はしませんでした。理由は単純。恋人と別れたからです。どうしてそうなったかといえば、問題は海外移住、ではなく価値観の不一致。よくある話です。すでに英会話に通っていた私は講師達に学習の目的、目標を伝えていましたし、その頃には簡単な会話ならできるようになっていました。そのため、しばらくは会う講師みんなに同じエピソードを話すことになり、お陰で破局や円満な別れといった英会話だけとても流暢に話せるようになる始末。その後コロナが猛威を振るい始めたこともあり、海外へ行くことは据え置かれたまま。
だったら英会話はやめてしまえばいいところですが、私は続けました。もはや趣味のようになっていたからです。もちろん、看護師として働いている私にとって、英語というスキルは役に立つこともあります。しかし、喋れたからといって私の待遇がよくなることはなく、ミニマリストや貯蓄家にしてみれば「浪費」「利益の出ない自己投資」ということになるでしょう。
英語を通じて見たい世界がある
なにかを教えてもらうことには対価が必要です。なんでも簡単に、何も支払わずに情報を手に入れられる現代では、英語を学ぶためにお金を払うことには私も抵抗を感じていました。服や外食、無駄な保険料などの出費を削ってきた私が、数年間英語に支払い続けている理由とはなんなのか。先ほどは趣味という言葉を使いました。英語が趣味だと。しかしそれは正確ではありません。正しくは、趣味を楽しむために英語が必要だ、といえるでしょう。
海外旅行
海外旅行には数えるほどしか行っていませんが、それでも海外旅行は好きです。でも毎回、慣れている友人についていくだけ。注文も友人に任せ、現地の人とは一言も言葉を交わさず、食事も味の予想がつくありきたりなものしか食べません。英語が話せませんでしたから、全ての動作に大きな摩擦が生じていたんです。観光の道中も日本語のガイドブックの地図ばかり見て、街並みや標識、漂う空気は気にも留めていませんでした。私は、せっかく訪れた国自体を見ていなかったし、その世界に参加すらしていなかったのです。
もし英語が話せたら、台湾の夜市でおすすめの味付けをおっちゃんに教えてもらったり、ドバイのデザートサファリで乗りあわせた人と荒い運転のスリルを共有したり、オーストラリアで気になったツアーに飛び込み参加することもできたのに。マカオのレストランで赤ワインを選ぶときも、店員さんと話し合って決められたらもっと素敵な食事になったでしょうし、ドバイの旧市街で腕を掴んで勧誘してきた強引な土産物屋のおじいさんには文句のひとつくらい言えたかもしれません。
私が英語を話せるようになりたい理由のひとつは、せっかくの海外旅行でちゃんとその国を体験したいから。もちろん身振り手振りや拙い言葉で通じ合えることも素敵でしょう。でも、その国のいいところ、悪いところをしっかりこの目で見て、感じるには、言語という媒体が必要なんだと、勉強し始めてから感じました。
映画
特に洋画が好きな私は、いつも小さな悩みを抱えていました。字幕を読むことに注意が向いてしまって、俳優の演技に全集中できないことです。吹き替えを観ることもありましたが、あれでは俳優の言葉の抑揚や息遣いがか感じ取れないことがあります。実際のセリフとは違う意味の言葉に吹き替えられていることも気になります。
好きな俳優はキアヌリーブスやジェイソンステイサム、ブルースウィルスなどアクションにも強い方が多いのですが、彼らの流麗な殺陣を鑑賞しながら字幕を見るのは至難の業で、吹き替えにすると本人のうめき声などはそのままなので声の印象がぶれて違和感を感じ楽しめません。
求めているのは映画への没入感。摩擦なくすべての音、光、言葉の正確なニュアンスを感じたいのです。そのためには作品に使われている言語を理解するのが一番早いです。英語の勉強が進むにつれて映画に沈み込む度合いも増していくのだろうと、いつか摩擦のなくなる日を楽しみに、わくわくしながら学んでいます。今のところは二か国同時字幕で勉強しながら視聴する日々です。
読書
子供の頃から本が好きで、学校の図書室にはよく入り浸っていました。ハリーポッターシリーズの大ファンで、暗記するまで読み込んだこともあります。こうして英語を学んでいれば当然、読めたらいいなと憧れていた原文に挑戦するのも自然な流れ。著者自身の言葉、文章に触れてみたいと思うのは、魔法世界に少しでも近づきたいからでしょうか。
英語にまつわる大好きなシーンがあるのでひとつ紹介します。ダンブルドア教授が「(10年以上前に死んでしまった女性を)まだ愛しているのか」とスネイプ先生に尋ねると、彼は「永遠(とわ)に」と答えます。素敵なシーンです。しかし、原文ではどのように言っているのでしょうか。彼は『Always』と答えたそうです。『いつも』ですって!私は翻訳からして『Forever』だとずっと思っていました。数々のラブソングで永遠を誓う歌詞が出てくるたびにありえねぇと吐いてしまう私ですが、スネイプ先生の愛の表現には胸打たれました。
翻訳することで元の言葉の意味や印象は、川の石が流れに揺られ丸くなるように変化してしまうことを肌で感じました。ますます作品は原液のまま、薄めたり飲みやすく味付けすることなく摂取したいと思うようになりました。今は2巻の半分ほどまで読みました。遅々として進みませんが、Alwaysのくだりがある7巻まで、頑張って読み進めたいと思います。
他者との関わり
これまで語ってきたことは、私が英語を学ぶ上で大きなモチベーションになっています。自身から湧き出てくるもの、自分がやりたいから頑張るという感覚。恋人についていかないといけないというのは、周囲の環境に対しての反応に過ぎません。これは、それぞれ内的動機付け、外的動機付けと呼ぶそうです。
英語を学ぶ動機は他にもあります。見栄です。病院やレストランで流暢に英語を話せたら格好いいよなーとか。旅先でテーブルマナーを守っても、言葉遣いが不適切なら「素敵な客」には見えないかも、とか。内的動機付けとは違い、他者の視線があってこその外的なものです。嫉妬や羨ましく思う感情と同種の、手放していきたい感情のひとつ。
あの人みたいに美しくなりたいから自分磨きを頑張る、タワーマンション暮らしのあの人がうらやましいから仕事を頑張る、などなど。これは果てしない苦行のきっかけになりうる感情、動機です。あの人みたいになった後はさらに上の別の誰かに嫉妬して、一生満たされることはないのでしょうから。
では、見栄も同じなのでしょうか。恐らくそうでしょう。ですが、「格好良く見られたい」ではなく「一緒にいる人に居心地よく感じて欲しい」なら心遣いでしょうし、「尊重したいから丁寧に話す」なら人目を気にするというより思いやりと言うほうが近い気がします。どちらも同じ外的動機付けですが、視点を少し変えれば生きづらさはなくなりそうです。
そもそも、言語というものは他者、つまり外部との交流手段。ならばこそ、この見栄から派生した外的動機付けも捨てたものではないのではないか、と最近は思うようにもなりました。
結び
人生を豊かに、幸せにしてくれるもののひとつは趣味だと思っています。そこに投資することは浪費ではあるかもしれませんが、無駄とは感じません。本も映画も旅も、違う世界を体験できる素敵なもので、英語はその世界と私の境界を取り払ってくれる魔法の道具なのです。まだ私はこの魔法の道具を使いこなせていませんが、いつかヴォルデモート卿くらいのレベルになれたらいいなと思っています。思うだけなら自由です。
もしあなたが何かに興味もお持ちなら、それにはきっと理由があります。自分の心に従って、まずは触れてみてはいかがでしょうか。あなたにとって無駄かどうかは、経験しなくては分かりません。意欲が湧かないのなら、少し立ち止まってみてはいかがでしょう。最初の動機はなんだったのか、視点を変えたらどう感じるのか、のんびり考えてみると今のあなたに必要なことが分かるかもしれません。無理に英語を続ける必要もないかもですしね。
終わり