本日は、テレビもなければ食事も1日1食にしているミニマリストの私が、部屋に観葉植物を置いている理由をお話していきます。ミニマリズムを軸に生活を整えている方や、日々の暮らしに何か新しいものをひとさじ加えたい方の参考になれば幸いです。
まず最初に、観葉植物はミニマリズムと相性がよくないと思うことはお伝えしておかなければなりません。物質的には場所を取るし、水やりや日当たりの調整などの手間もかかる。掃除もしづらいです。また、うちの植物たちは季節によって葉の色が変わったり花や実をつけることもありませんので、季節感もありません。友人に自慢できることでもないし、経済的に得をすることもないでしょう。
しかし、手間をかけて植物と暮らすことは、決して意味のないことではありません。その感覚を、つらつらと言語化しようというのが今回の試み。どうぞお付き合いください。
※広告が入っています。読みづらい箇所があるかもしれません。どうかご容赦ください・・・。
私は雨の音や植物の枝葉の形、空模様などが好きです。雨は、音はしているのに同時に「静か」でもあるところが好き。木の枝はまっすぐ伸びていたり曲線を描いたり、はたまた思い出したように急に曲がっていたり。雑然としたようで調和のとれたその形は美しいと感じます。空の色も雲の形も刻一刻と変わっていって、特に早朝と夕暮れ時はずっと眺めていたいほど幻想的です。空にちなんだ色の名前や天気の呼び方も、可愛らしいものから詩的なものなど、たくさんあるのも素敵ポイントです。
音楽や絵画も好きです。学生時代はバンド活動をしていましたし、美術館も大好きな場所のひとつ。最近印象派の名前の由来なども知りましたが、歴史も含めてやっぱり芸術は面白いです。そしてモネの睡蓮は日本人と波長が合うのでしょうか。とっても好きです。そして、それと同じくらい、自然が作り出す不規則かつ有機的な姿かたちも綺麗だと思っています。
今文章を書いているこの時にも雨が降っています。音楽は好きなのですが、思考をかき混ぜられるような感覚があるので、無音の中で文字を連ねることがほとんどです。そんな私ですが、雨の音は不思議と邪魔になりません。考え事の単語に雨音が混じっても、不思議と手が止まることもなく、静かな気持ちで一人のんびり書くことが出来ています。
そしてここでは敢えて、観葉植物の利点という形では話を進めないように注意しようと思います。人は合理性で動くばかりではないと思うし、綺麗なものをそんなもので飾り付けたいとも思わないからです。できるだけ素直な形で飾らずに書いていきます。
私の部屋にある植物は三つ。青木の切り枝、花桃の切り枝、そしてオリーブ。実際に世話が必要なのはオリーブだけで、他のふたつは花瓶の水を新鮮なものに替えてあげるだけです。すべてを一度に生活に取り入れたわけではありません。なにも無い部屋で過ごして、少しずつ欲しいものを増やしていって今の形に落ち着きました。
最初、断捨離をしたなにも無い部屋で感じたのは清々しさでした。ものがなくなって広くなった空間。それは快適なだけでなく、自分の頑張りの証でもありました。大げさに言えば人生がこれから変わる予感、世界が拡張されたようなわくわく感。なにもないことが誇らしい。そうも思っていました。
しかし、インテリアが大好きで丁寧な暮らしにも憧れていた私が、そんな無味乾燥な空間で満足感のある生活を送れるはずもありませんでした。美術館では展示物を強調するために、部屋に絵以外なにも置かないというミニマムな空間もありますが、それは芸術品があるからこそ成り立つ美しい世界観であって、本当に何もないのは殺風景です。文字通り、風情ある景色を殺す所業。私にはもっと潤いが必要でした。
北欧家具や名画のレプリカを取り入れることも考えました。美しい流線形の椅子や風景画で、無機質な部屋に洗練された丸みというか、まろやかさが出ると思ったのです。何もない空間に一流品を置く。まさに美術館のようです。
一方で、ミニマリストになった私はものを増やすことには抵抗を感じるようになってもいました。今使っている最低限の家具で事足りていますし、絵画を飾るのはなんだかやりすぎな気もします。足るを知る、という言葉もあります。ファッション狂いだった頃に友人に言われ、当時はぴんときていませんでしたが。そして、憧れのひとつに、寺院の庵室のような空間を作りたいというのもありました。苔むした庭園の傍らにそっと佇み、日の光がそっと差し込む穏やかな一室。しかし室内で苔を生やすわけにもいきません。床一面を苔で覆って踏み石の上を歩くなんて仙人のような生活も一時期考えました。
そんな時にふと思いつきました。苔は駄目でもほかの植物ならどうだろうと。人工物の流線形に劣らない美しい枝葉や、風景画を置かずとも目の前にある本物の緑。実際に触れることが出来て、ほんの少しだけ自然との距離が縮まるような気もします。仕事では一日機械に囲まれて外の空気や風も感じず、天気の移り変わりも分からない環境にいる身としては、家の中で自然との繋がりを感じられる暮らしには、とても魅力を感じました。
西日を浴びるオリーブと影
植物と暮らし始めてから、生活に大きな変化はありません。ただ、断捨離を何度繰り返しても、青木も花桃もオリーブも、その候補に挙がることはありません。夜中に目を覚まし灯りを点けないまま動いてオリーブの枝に顔をぶつけることも、花桃の枝が風でなびくカーテンに引っ掛かって花瓶ごと倒れそうになるのも、私の日常の一部になりました。それを無駄と言ってしまえばそれまでです。なくて困ることはありません。でも、寂しくはあります。
植物を見ていると癒される。その言葉は正しいかもしれないけれど、癒されるまでの過程、人がどんな風に感覚を動かされるのかは、なかなか言葉にするのは難しいです。ですが、私はきっと植物に水をやっている時、植物に潤されているのでしょう。
そういえば、大学生の頃にある展示を見たことを思い出しました。美術大学の制作発表で、擬音を100個収集するというものがあったのです。その中に、しとしと、しんしん、という擬音がありました。雨の音と雪の音。その情景と、この可愛らしい日本語に頬が緩んだのを覚えています。言葉で天気、自然をここまで端的に表現できるのかと。間違いなく、その時思い浮かべた雨と雪の景色が、自然を身近に感じるきっかけになりました。それがなければ、ここまで自然を偏愛することはなかったでしょう。いつ何がきっかけで感覚が動くのか、分からないものですね。その学生さん、今でも擬音を収集していたらいいな、としみじみしました。
終わり